絶滅メディア博物館
東京・大手町の絶滅メディア博物館(https://extinct-media-museum.blog.jp/otemachi/)
を見学
絶滅しつつある/絶滅した 記録メディアを軸にカメラ/ノートPC/ケータイ/PDA/スマホ などを展示しています。
キャプションはほぼ無しですが、これだけの記録メディアが集まっている稀少な空間をお裾分け。
アナログの銀塩フィルムにも 35mm以外の規格がありました。
それまでの35mmフィルムは全コマを撮影しおわらないとフィルム交換ができなかった。
24枚撮りのフィルムなら24枚を撮り切ってから交換するか、それ以降のコマを無駄にして交換するかの2択だった。
APSフィルム規格はこの点を改良して利用途中での交換が可能となった。
これにより 「こっちは建物のフィルム」「こっちは 人物のフィルム」というような撮影時の使いわけが可能だった。
個人レベルで音声の録音は長らく アナログの磁気テープが利用されていた。
音声用のデジタルの磁気テープ
なぜ犬の置物があるのかも 判らない時代になっていってる。
京セラのサムライは 35mmフィルムを縦に収納し、縦長に1コマを上下2つの横長のコマとして利用するハーフ判と呼ばれる形式
24枚撮りフィルムなら48枚撮影できる(画質は落ちる)ので、海外旅行には大きなメリットだった。
この形状でパっと見ではカメラと見えない、そして当時はまだビデオなど動画撮影がポピュラーでなかったので、
海外の博物館や教会への入場時に「カメラを預ける」チェックやその行列から逃れるコトもできた。
関数電卓の次のステップとして BASICでのプログラミングが可能なポケットコンピュータが登場。
私が大阪・日本橋のナニワ商会で買った PC-1211 で無いのがちょっと残念。
珠算の段を持っているような人は電卓への入力より、ソロバンでの演算の方が乗除算でも速かった。

スマホ以前のケータイの頃は 端末の価格が実質0円で回線料で回収するコトで多種多様なケータイが続々と発売されていた。
その影には これらのケータイのソフト/ハード開発でのデスマーチが各所で繰り広げられていた。
ケータイに電話がかかってきた時に鳴らすメロディをいろんな曲にして「着メロ」と呼んでいた時代。
この赤・白・ブルーグレイのインフォバーのデザインは話題を呼んだ。
ノートPCと違い、ラップトップPCの頃は電池での稼働はまだ現実的でなくAC電源を直接つながないと利用できなかった。
スマホが登場する前には PDA(ネット接続を前提としない)端末が個人のスケジュールなどの電子化を担っていた。
ノートPCのデザインを革新したSONYのVAIO。
1)本体とLCDの間にある空間に筒状のバッテリーを収めていた。
このレイアウトにすることで厚みが必要だったバッテリーを本体/LCDの外に置くコトができ、全体の薄型化に成功。
(左のThinkPADのほぼ半分になっている)
2) LCDの裏側の蓋の”VAIO”のロゴが「蓋を閉じた状態では手前にロゴの上が来るが、LCDを開けた時に正位置になる」
という「利用してる時に 他の人に”VAIO”と正位置で読める」形式
3) 全体を白と薄紫という上品なガジェットとしてまとめたカラーリング。
それ以前のPCでは事務機器としての薄灰色や アナログオーディオのような黒だった。
この頃、SONYのCMキャラクターが 人気アイドル/女優の奥菜恵さんということで購入。
1枚のMDに入る楽曲もほぼCD1枚分だった。
シネコンでなく「映画館に入場したら何回でも見れる」「客席は入場してから 自由に確保」時代の最後に観たなぁ。
タフブック CF-30がありました。
ソノシートも知る人は少なくなった
映像配信が主流となることで ディスクメディアにも絶滅の気配が漂いだしている。
個人が手許に「映像コンテンツを所有」できたのは長く見積もっても100年に満たないことになりそう。
2019年にサービス終了となった Amazon Dash
「画の出るレコードを開発せよ」によると、VHDは磁性体ディスクのベースの製造歩留まりが障壁となって普及しなかったらしい。
直径30cmの円盤に磁性体をムラなく均一に施すこと際に「均一」というのが大きな壁だったとのこと。
オシマイ